アメリカの大人系ファンタジー映画は結構、詩的なのだと思う。そして、美しい。脚本家が素晴らしいのだろうけど、それも原作あってのことでもある。原作が長い間埋もれていたっていうこともある。ブラッド・ピット主演の『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』なんかも、その1つだろう。
ベンジャミン・バトン:スコット・フィッツジェラルド
この映画は、F・スコット・フィッツジェラルドが1922年に書いた短編集が原作。『The Curious Case of Benjamin Button』だ。フィッツジェラルドと言えば、村上春樹の訳でも知られる『グレート・ギャツビー』で有名だ。そして、残念ながら、アメリカで映画化されるまで、この『The Curious Case of Benjamin Button』は翻訳されて出版されなかったのである。まので、こんな昔に彼が書いた短編をこういうように映画し結果原作が翻訳され私達の前に提示されたということにまずは拍手をしたい。
この原作である小説自体を読むと、映画とは全く違う内容にはなっている。そのくらいに、映画には色々な想いが詰めこめられている。しかし、小説は小説として面白い。それは、フィッツジェラルドの原作では、小説家の小説家らしいベンジャミンの寂しさや孤独、無力さが全面に出てくるところである。そうなのである。暗いのである。そこが小説とも言えよう。映画でもブラッド・ピットが彼の孤独を上手く顔で表現しているが、それ以外の意味も多く入れてきている。
とにかく、あの時代に、フィッツジェラルドが、年老いて生まれ若返り時間が逆行するという発想を持って、この短編を書いたことに感銘を受ける。
ベンジャミン・バトン 数奇な人生
ブラッド・ピット主演×デビッド・フィンチャー監督の同名映画原作。老人の姿で生まれ、若返っていった男の、哀しくも美しい物語。「人生は夢であると感じることはないだろうか。どんなに幸福な瞬間でも、過ぎ去ってしまえばもう、本当にあったのかどうかさえわからない。写真を見ても、ただぼんやりとした記憶が残っているだけだ。そして、F・スコット・フィッツジェラルドぐらいそうした感覚に取り憑かれ続けた作家もいないだろう。」――訳者あとがきより
この小説を読んで感じたことは次のようなことかな。
本書を読むと思うところは、生まれ落ちて生きていくこと自体がとても哀しいということ。人生は信長が死の間際に言ったように夢幻のようなもので、人は結局果てしない願望を抱きながらも志半ばで人生を終えなければならないのだと。そんな暗示に飛んでいます。そして、それは、真実なのだと。
歳を取れば、心の落ち着きは出来たとしても体は思うように動かない。若くなっていけば、体が思うように動いても、精神的に自分のやりたいことが出来ない。そして、家族や友人など近くにいる人達との間には、常に大きな精神的な精神的な隔たりがいつもあるのだ。時は戻るというファンタジーは決してハッピーにはならないのである。死ぬまで。滑稽にフィッツジェラルドは書いているが、その実、とても哀しい人生の物語なのです。
映画:ベンジャミン・バトン/数奇な人生
だから、こんな哀しい小説を映画にしたことは大変なことであったと思う。
だが、この映画の素晴らしいところは、この滑稽に人生は哀しいねっていうフィッツジェラルドの想いをプラス思考で捉えているところではないだろうか。
『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』のキャッチコピーは「人生は素晴らしい」だ。小説の方向性とは全く逆であろう。つまり、前向きな哀しい捉え方ではないのだ。80歳で生まれ、年を取るごとに若返っていく数奇な運命の下に生まれたベンジャミン・バトンの物語というファンタジーストーリーの骨子は同じである。小説と。だが、その方向性は、人生は素晴らしいということで、そのメッセージが、「一瞬、一瞬を、大切に生きていますか―?全ての出逢いを、胸に刻んでいますか―?」という人生に対する警句を言っているのだ。ある意味がそれすらも哀しいことなのであるが、この映画の宣伝文句は、人生は素晴らしいのである。出逢いがあるから。一合一会だとしても。
ブラッド・ピットという天才俳優
そのようなスタンスの映画にとって、やはり主演のブラッド・ピットが素晴らし過ぎるということだろうな。再度、この映画を観て俺は確信したね。確か次の言葉がブラピの言葉だ。ブラッド・ピットの言葉が素晴らしいね。人は出逢い、人は別れていく。それが人生なのだ。
「人は出会った相手に何らかのインパクトを与え、印象を残していく。そこには、どこかとても詩的で、受容的な雰囲気がある。それは別に投げ出すわけではないよ。自分が求める何かのために頑張るのをやめるということでもない。人生の必然性を受け入れるということなんだ。人は僕らの人生に入ってきては去っていく。人は去るものなんだ。それが選択によってであろうと、死によってであろうとね。自分自身がいつかは去るように、人は去っていく。それが必然性というものだ。それとどう向き合うかが問題になってくる」
今回改めて観直してみたが、素晴らしさは全く色褪せない。当たり前の感想であろうが、主人公役のブラッド・ピットが素晴らしいに尽きる。彼の80歳から若者に至るまでの顔の表情と体の動きを通じて、その成長の折々で彼が垣間見せてくれる日々への想いが、私たちが人生というものについて感じさせてくれるのだ。出会いや別れ、人々とのふれあいや愛情、嘘や離別、すれ違い、生きることの喜びと残酷さ。ファンタジーだが、ファンタジーでない人生の深淵なテーマの答を教えてくれるような。ブラッド・ピットはまさにイケメンであるが、この時から、この前から、タダモノではなかったのである。
当然ながら、ディジー役のケイト・ブランシェットも良かったし、ティルダ・スウィントンも。そして、船長役のジャレッド・ハリスも。皆、名演技であったな。
まあ、全て、ブラッド・ピットの友人でもあるデヴィッド・フィンチャー監督の手のひらの中に乗っているのではあるが。
ハチドリと永遠と死と生と人生と
確かに8という数字は、横に置き換えると、無限∞になるのだ。インフィニティ(infinity)という永遠なのである。ベンジャミン・バトンであるブラッド・ピットは何度も聞く。「永遠はあるのか」と。
若返り人と逆の時間を跨いでいくベンジャミンの心からの問いだ。映画の中で多分彼はその答えを次のように思っているのだろうと思う。それは、人に対する変わらない想いを指して永遠と言っているのだ。英語で言えば、「some things you never foget」であり、忘れられないものが君にもあるだろうという意味合いに近い。
そして、その象徴が、ハチドリだ。映画には何度か登場する。ハチドリは8の字を描いて飛ぶことからその名前がつけられているが、永遠を象徴する鳥なのだ。そう無限∞なのである。出逢えたからこそ、それこそがたとえ一瞬であろうとも、忘れられないものであれば、そこに永遠があるのだ。死が生を別つとしても、出逢いがあり忘れられない想いがあれば、それこそが永遠なのだ。だから、人生は楽しいのだ。哀しい別れがあろうとも、出逢って忘れられない想い出や忘れらないものが心にあるのなら、人生はきっと楽しいのであるというメッセージなのである。死があるからこそ、生の意味があるとも。
ファンタジー映画のメタファ―
この『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』の映画の中には、ハチドリ以外に、逆向きに動き続ける時計とカジキマグロ船が出てくる。
時計は、盲目の時計職人のガトー氏が戦争で亡くなった息子が再び戻ってくるようにとの願いを込めて製作されたもので、80歳の体で生まれ時を逆行し若返り0歳になり死んでいくベンジャミン・バトンの人生を暗示する。
カジキマグロ船は、ファンタジー映画には本当に良く出てくる❝船❞というメタファーである。きっと観たであろうアメリカのファンタジー映画には、絶対に必要な存在なのである。この、❝船❞。
例えば、だ。俺の好きだった大人系のある意味ファンタジー映画では、『ショーシャンクの空に』と『フォレスト・ガンプ』がある。どちらにも、話の途中に、この❝船❞なるメタファーが出てくるのだ。アメリカのファンタジー映画には、どうにも海に繋がるこの❝船❞っていうのが、きっと、何かの主人公にとってプラスのメタファーになるんだろうな。そんな細かいことにも気がついてしまった『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』という映画。時々観返しては、一期一会の意味について考えてみたら、どうだろうか?どちらの映画も、出逢いの重要性を問いかけているような。
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