『さよならをいうのは、わずかのあいだ死ぬこと』と書いたのは、レイモンド・チャンドラー。時として、別れることが死と繋がっていることもあり得るが、普通は違う。私達は毎日毎週さまざまな別れを経験している。その殆どが、何でもない別れです。しかし、その何でもない別れの中に、そのまま永遠の別れになってしまうこともある。だからこそ、またいつか会えるか分からないことを予感させる別れには、不安も感じ、感傷的になってしまいます。
当たり前のことですが、人は出逢うからこそ、別れがある。人の出逢いはとても幸せなことが多い。だからこそ、その出会いが素敵なものであればあるほど、その別れはとても辛いものになる。
この別れに伴う痛みや悲しみを皆どうしているのだろうか?どうやって、克服していくのであろうか?
この悲しみを克服していくのかと言えば、それは、多くの場合、忘れること・忘却によって、そこから自然と癒されていく経路を取るのが普通です。それしか、実は方法もないのではないかとも思えます。
特に、響子さんは、惣一郎さんとの突然の死という別れをしました。
その死という辛い別れをどう響子さんは克服していくのか?忘れるということは忘れられる者にとっては惨たらしいことでありますが、これがなければ私たちは、過去を振り返る毎に、その感情の生々しさに苦しまなくてはなりません。
響子さんも、自然に忘れる時が来ても・・・とは言っているけれど。それは多分無理であろうというのが、この漫画のテーマで。その忘却はやって来るのだけれど、その忘却とはその別れた惣一郎さんを忘れることではなく、忘れないで一緒に生きていくというところに、五代君が気づかせてくれたところにあるのだね。そこに、この漫画の凄さがあるのです。高橋留美子の凄さがあるのです。死んで別れた人とも一緒に生きていくという設定です。これが、多分、別れをアウフヘーベンさせる最高の落としどころなのでしょうね。
そして、このスタンスは、めぞん一刻の話の最後まで続きます。それは、とても素晴らしい響子さんのある意味、逆のプロポーズというかお願いがあります。
あたしより長生きして・・・
これは実は、いつか死して別れるということを若くして知ってしまった響子さんだからこそ言える言葉なのです。五代君と末永く一緒に生きていたとしても最後には別れが来る。だから、もう私に惣一郎さんの時と同じような悲しみをくれないでという。二人の未来に対する別れの誓いなのですね。
いつかやってくるであろう別れに対して、響子さんは五代君にこう言うことによって、備えているのです。そのくらいに、別れは辛いものなのです。響子さんは身をもって知っているのです。もし、そのようなことが起これば、残される五代君も悲しみの中に落ちていくのは間違いありませんが、五代君は多分それまでの響子さんとの繋がりを通じて、その別れの後の自分をきっと受け入れていくでしょう。
そう、人と人を結びつける愛は、その愛情が強ければ強いほど、その相手のために自分を棄てても一向に構わないと思う傾向があります。自分を捨てて、死んで別れていった人に捧げるというような。しかし、自分を捨ててまで、その別れに捧げることは出来ないのです。辛いけど、残された人が死んで別れていった人の心も含めて、自分の中に生かしていくことなのですね。多分、響子さんを好きになり彼女を生涯の伴侶として決めた時の五代君のように。五代君は、漫画にはない未来、年老いた二人の別れに出逢った時も、そのようにしていくのではないのでしょうか?
このことは死の永遠の別れだけでなく、生きたままの普通の別れの時にも、同じように大事なことかもしれません。忘却が自分をいつの間にか助けてくれること。別れた人を自分の心の中に置いておくこと。そして、それ以降の自分の幸せを考えること。別れた当初は悲嘆にくれるでしょう。しかし、伊集院静も言っていますが、時間が解決してくれる。そういうことなのですね。別れに際して、この3つのことを、めぞん一刻は実は教えてくれたのではないかと思っております。辛いことから徐々に前を向いて次のステップに行くために。
めぞん一刻から、❝別れ❞のことについて考えてみました。
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