めぞん一刻を語る⑪:疑うことについて

めぞん一刻

めぞん一刻の中にも、登場人物が疑う場面があります。しかし、それは、決して、読んでいてこちら側が不愉快になっていく「疑う」というスタンスでないような気がします。

私たちは日常の中で、慎重な態度でいれる時と疑い深くなってしまう時の2つが必ずあるように思います。人に対して疑い深くなるというときは、往々にして、その人を信用できないとか嫌な感じだとかの様々な悪感情が入り乱れ、人との関係が非常に複雑になっていくようになります。それは、当たり前のことかもしれませんが、疑う対象が「人の心」だからです。人の心を不必要に探り、この疑いから脱却しなくてはならないという自分の心の過程は、あまり気持ちの良いものではありません。こうならないようにいることが一番良いのですが、そのためには、今の世界では、自分を人一倍底抜けに人のいい人になるしかないというのが極端な例となります。つまり、どんなことがあっても疑わないで人を信頼する。ですが、そんな心根であれば、今の社会では、多分損するだけで生きていけないではないかということになってしまいます。ならば、どうすれば、この疑うという心理から上手に付き合っていけるのでしょうか?大変に、難しい論点です。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

響子さんは感情の起伏の激しい人でもある。そして、五代君に対しても、彼の優柔不断さや彼女の想い込みの激しさで、勝手な疑いを持ってしまうのだが、決して、五代君を心の底から疑うところまでは行かないのであります。それは、基本的に、五代君の人の良さをそれまでに知っているからこそ、二人の間には、潜在的に、信頼というものが根底の心のベースにあるからなのですね。

確かに、色々と、ストーリーの中では、二人の間に、ちょっとした疑いのところから、いざこざのようなことが起きて、それが面白さを私たちに与えてくれるのですが、この疑いは、決して悪い意味での卑しい懐疑とまで行かずに、むしろ、分からないことから派生する疑いで、人の心を不必要に探り続けるようなものになっていません。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

むしろ、二人の間にある心のキャッチボールの中で、疑いというボールを、人として信用した上で、投げ返すことをしているような感じです。不必要に人自体を否定するような悪しき疑いには、なっていません。確かに、ボールは逸れたりしたりしていますが、来る玉を待ち受けている姿勢は二人とも真摯なものなのです。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

考えてみると、めぞん一刻の登場人物はどの人も個性的ですが、こと、この疑うという観点から見れば、どの人も、ベースにあるのは人を信頼しているというところにあるような気がします。四谷さんにしても、三鷹にしても、一の瀬さんにしても、朱美さんにしても。

現実の世界では、悪人も多く存在します。例えば、疑うことを知らない老人の心に付け込み、善良な人を貶める悪が存在します。めぞん一刻には、そのような人達は出てきません。しかし、だからこそ、この漫画から、疑いの仕方を学ぶ必要があるような気もしています。疑うべき時に、その相手と程よい関係にあるか否かを慎重に自分の中で見極めていく必要があります。さながら、キャッチボールがその人との間で出来るかという感じで、程よい位置関係を持っているかが大事になってきます。キャッチボールは、二人の間の心のやり取りです。疑う自分の心のバランスが良い時に、変な言い方かもしれませんが、良き疑いができるのではないかと思います。まずは、キャッチする自分の肉体と心が上手く調和できるような構えが出来るかどうかで、疑いというボールも上手に投げられキャッチも出来るのではないでしょうか。

コメント

フジ子さん

タイトルとURLをコピーしました