コメディ系の漫画である『めぞん一刻』で、『個人と組織』の問題について語るなんてオカシイだろうと言われそうであるが、ここはやはり、「個人」と「組織」という観点から、この漫画を見ることにしてみたいのである。
組織と個人についての関係
俺はかつて、個人と組織問題に関して、結構、記事を書いてきたのである。それは、組織における個人という問題が結構根強いストレスであると感じていたからなのであるが。
この『捜査1課』という結構面白いテレビドラマでは、次の点がポイントだったな。
この中の全てを常に考えて動くことが組織と個の調和をはかる上では大事なことだが、特に「組織人格と個人人格」については注意を払った方が良いかもしれない。そこに、組織の中で幸せになれる秘密があるかもしれない。ここについては、アメリカの経営学者『チェスター・バーナード』の組織理論が役に立つかもしれない。
出典:幸せ修行道『組織事例の最高峰:捜査1課』
そう、組織人格と個人人格の拮抗なのであったよ。その話は次のような展開をしたな。
俺は、次のようなことも言っていた。
組織と個人、そこにある図式は、原始人間が生まれ進化してきた何億年も前から、継承されてきたものだ。個人と集団は対立関係にありながら、集団に個人が内包される中で多くの成果物を構築してきた。言ってみれば、友人関係も夫婦家族関係も組織。学校のクラスもクラブも組織。会社と同じ組織なのだ。そこにある違いは非公式なものか、公式なものか、だけの違いだ。この領域を少しずつ探ることで、人の幸せを考えてみよう。例えば、イジメにしても、この組織対個人の構造対立が1つの原因でもあるのだから。
出典:幸せ修行道『会社男』
めぞん一刻にみる『個人と組織』
村上春樹がかつて、『うずまき猫のみつけかた』というエッセイの中で、こんなことを言っていたな。
間違いのない事実として、「個人と組織が喧嘩をしたら、組織が勝つ」と言っていた。村上春樹が学校を出て以来どこの組織にも属さずに一人でコツコツと生きてきたからこそ、身をもって学んだ事実が組織が個人に最終的には勝つということなのだ。だが負けるのが判っていても、孤軍奮闘して頑張るのが個人なのだという確か結論になっていたような。
めぞん一刻に翻って見てみると、この漫画には、大きな組織というものは出てこないのである。もし出てきたとしても、五代君が就職のために少しだけ出てくる八神いぶきの父親の超一流会社だけである。そして、それは、むしろ、彼女の父親がメインの話であった。
事程左様に、めぞん一刻では、組織と個人の葛藤的なストレス問題は出てこないである。めぞん一刻での組織のような集団は、例えば、当たり前であるが、めぞん一刻の住人達に代表されるアパートの賃借人達とか、三鷹のテニススクールとか、五代裕作の務めていたキャバレー店とか、五代裕作が教育実習で入った八神のいる女子高とかなのである。
そこは、非公式的な組織であるのだ。だが、それも組織なのである。そこにおいても普通は、会社組織や警察組織等という公式組織によくあるような、組織と個人の衝突があり、そこに個人人格が関わってくるのである。しかしながら、
高橋留美子の漫画において、彼女の出してくる組織というのは、個人と相相克する厳しい集団というものではないことが読んでいると判ってくるのである。個人の人格を否定するといった意味での組織人格の個人への投影はないのである。めぞん一刻である集団の組織人格に関して言うと、そこには、個人を否定し攻撃するような組織の冷たさは存在しないのである。実は意外だが、ここにも、めぞん一刻が微笑ましいストーリーであることの裏理由もあるのかもしれない。
確かに、五代裕作をいつも悩まし宴会をしまくる住人たちは厄介な存在であり、このめぞん一刻といアパートの住人集団は組織として困ったものであるように描かれているものの、五代裕作や響子さんを使って遊ぶものの、そこに組織的な冷たい人格は流れてこないのである。そこにあるのは、ユルーいカタチの中での集団組織において、実はそこに包含される個人を尊重するような世界が描かれているのである。高橋留美子の中にあったのは、組織的な集団が個人を痛めつけるようなことはあってはならないという意識なのである。ある意味、それは哲学と言っても良いだろう。
この漫画で描かれる人々は個人として色々な個性を持っており、そして、その一人一人の個人人格は決して組織なる集団で精神的に追い詰められ染められていく組織人格であってはいけないのだという潔い個人を尊重する集団が描かれているのである。
組織と個人の新しい構図
このように、実は、めぞん一刻という今ではある意味昭和の古典とも言えるこの名作漫画の中には、個人と組織における新しい形での関係が示唆されていたのかもしれないなと、俺は勝手に思っているのであります。
今、コロナ禍の中で、会社組織における組織と個人の立ち位置や在り方が変化してきている。テレワークやリモート業務などで、サラリーマンが大きなビルにいつも通勤し、そのような閉鎖された組織の中で個人と個人がコミュニケーションを図り仕事をしていくという図式は解体されつつある。
それはインターネットの進んだ世界での新しい組織と個人の構図なのである。ヒエラルキー的な組織での閉鎖された空間での個人の集団化という従来の組織の在り方が、個人が主体にありその個人が主体となりそこから組織目標の成果を実現していく逆の組織人格が現れてきたのである。会社が上からのベクトルであったものが、個人から組織の上への下からのベクトルに変わってきたのである。
これからは、例えば、会社組織でも、個人でも独立出来る位の若くして実力のある社員が緩い共同体系の中の会社組織の中で、今まで以上に活躍できる世界になっていくのであろう。
そういう未来予想図としての、個人を尊重できる緩い組織の中での人の協働体系を持つ集団を描いてきた高橋留美子の先見性を評価したいのである。人間というものにとって集団は大事である。そして、そこにおいては個人と個人が協働して助け合いお互いを個人人格として認めあうことも大事である。そして、それは会社組織という集団においても、必要なことなのである。そして、その集団という組織にとって更に大事なことは利益を上げる上でも個人を排斥しない目標を持ち続けていくことなのである。この辺りが今までの組織と個人の関係で希薄になったいた点であろう。それはブラック企業などの公式組織や学校などの非公式組織では考えられない構図であったのだろうな。そこに必要な一つとしては多分相手に対する愛なのであろうな。
個人と組織という切り口からめぞん一刻を見てきた。唐突なテーマであるが、今の社会における組織と個人の関係を垣間見る世界があったように感じている。人は個人として個人と協働しながら組織を構築していくという重要な最初の大事な原点を気づかせてくれたような気がするのだ。そうではないだろうか?
今、経営学の理論の面でも、組織論において、上記のような緩い人間関係の中での固定された構造物に閉じ込められない自由な個人の活動の集大成的な組織の登場とその価値についての検証がおこなわれている。実は、そのような新しい組織論の根底にあるのは、めぞん一刻にあるような組織と個人の関係なのであるのだね。学問的に言うとね。
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