人は高倉健でいるべきか?高倉健の映画に魅了された人は多い。何故なら、健さんはあまり映画では喋らないからだ。寡黙だ。背中で語るとまで、言われている。立っているだけで、絵になる男。
多くを語らないことで、逆に、面と向かった人に多くの刺激を与える男。義の人であり、情の人である。それが、この人の寡黙さや立ち姿だけからでも、感じてしまう。
この人と風景は一体化する。それは大雪であったり、遥かな草原であったり、風が強く吹く砂漠であったり。風景と健さんが何故か一体化する。そこには、キリッとした張り詰めた緊張感すらあるのだ。男が絵になり男が風景描写に意味を持たせる。
義理と人情と誠実さ。高倉健を知る人達は皆言う。多くのことを語らない。語らないからこそ、その目の、ぐっと耐えているものが目力となるのだと、健さんは一時期精神的に倒れた岡村隆史を励ました。
健さんの生涯の座右の銘は「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」。千日回峰行を2度も満行した天台宗の僧侶、酒井雄哉大阿闍梨から教えられた言葉だそうだ。
「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」という法蔵菩薩の誓いの言葉。高倉健の生き様とそのまま一致する座右の銘です。
人を思いやる気持ち。この思いの強い健さん。しかし、それは言葉ではなく、行動で示す。そして、それを静かに密やかにおこなう。
ところで、小説家丸山健二が高倉健をモチーフに書いた小説があるのは知っているかい?『鉛のバラ』。お勧めです。結構良い小説で、是非、読んでみてもらいたいものです。健さんを深く掘り起こしています。渋い内容ですよ。
それから、Wikipediaで高倉健さんの復習をしてみましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/高倉健
ところで、今、巷では、何かをしないことが健康に良いとか、考えないことが生活にクォリティを与えるとかの、しない手法やノウハウがブームだ。 多くを語らないのではなく、多くをやらないという感じだ。
え、!?そんなこと言っているのは、俺だけ。そんなことはないよ。週刊誌では、毎週といってと良いくらい、ガンになっても手術をするなとか、特集を組んでいるし。極端なことを言えば、仕事だって、あまり、目立って動くなという感じだ。何かを一生懸命やれば、パワハラとかのハラスメントにあってしまうし。
何もしないのが、上手に生きていく決め手だと来たもんだ。多くを語らなければ、被害に合わないとか?参ったね。これで、良いのかい?多くを語らない寡黙の意味が、何となく、本末転倒の様になっている。
大事なことは、何もしないし多くを語らなくても、そこに高倉健のように、1つの筋が通っているかどうかということなんだろうね。なんでもかんでも、時流に乗るのではなく、自分の信念というか生きる座右の銘を持ち、そこに依拠して、何もせず多くを語らないのであれば、それはそれで1つの幸せの流れなのかもしれないね。
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