人は生まれて、初めて生を受け、この世に存在をすることになる。そして、物心ついた時に、何故、この家に生まれたのか?何故、このお父さんとお母さんのもとに産まれてきたのかを、不思議に思うようになることもあるかもしれない。
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この両親のもとに生まれて幸せだった、とか。なんで、こんな親のもとに生まれてしまったのだ、とか。
今の若者的な言葉で換えるなら、『親ガチャ』的なことだろうか?
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子どもは「自分で親を選ぶことができず、どういう境遇に生まれるかは運任せ」であること、カプセルトイなどの抽選形式で決まるようなもんだという話でもあるのだが。
まあ、親ガチャの語源的な意味は、悲喜こもごもの中の悲を称しているようであるけれど。
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ところで、この生まれるってことに対する我が『めぞん一刻』での捉え方はどうなんだろうかな?
振り返ってみると、そこには、その両親のもとに産み落とされたことに対する肯定感が常にあるような感じがしますね。
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確かに、メゾン一刻には、生まれたことや生きていくことや死んでいくことに関して、決して、否定的なメッセージは流れていない。
むしろ、極端に言えば、大きな意味での人間の歴史的な生存サイクルへの肯定感というか、意義を謳っている感じさえするのである。
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あなたに会えて、本当に良かった。
人は生まれ、生き、死ぬ。そのサイクルの中で、人は人に出会い、愛を育み、子供を産み、育つ。そのサイクルの繰り返しが時を刻んでいく。
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ひとつひとつの悲しいことも辛いことも時の流れの中で昇華され消化していく。
時の中で、出会いは別れを意味し、別れは出会いを意味もする。
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生まれてきたことをマイナスに考えるか、プラスに考えるか。可能なら、プラスに考えられる時代でそういう自分でいたいと思うと、高橋留美子は言っているような気がする。
そういうことが、実は、メゾン一刻には根底に流れているのに違いない。
と、私は勝手に思う。
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総一郎さんの死も、三鷹との別れも、五代君との出会いも、何もかもが。大きな人を取り巻く流れの中では、人間の歴史的なサイクルの中の一瞬の出来事でもあるのだ。
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