頑張っても頑張っても、上手くいかない。努力しても努力しても、報われない。
そういう状況になると、更に、自分に鞭打って、頑張ろうとする。
肉体も精神も限界に来ても。ある目標や目的に執着してしまう自分がいる。
結構な苦渋の無限ループに陥ってしまうのではないだろうか?
このような状態になった時に、どうするか?そこが、今回の論点。そして、そこにある運とツキについて、考えてみたのだ。
力が入ること→努力
努力するのは、そもそも、ギュンと力を入れる感じだから、かなり体や精神に力が入っている感じだよね。
貴方はどうだろうか?
スポーツでもスピーチでも何でも、力を入れた時と、力を抜いたようなかなり自然体の時とどちらの方が結果として、上手くいっただろうか?
大体、皆の答えは、何故か、力を抜いて、事に当たった時という答えになるはずだよね。ここはと思って、力を入れた時はリキミ過ぎてという言葉にあるように、 何故か、 失敗することが多くなかったですか。
力を入れ過ぎるとダメで、力を抜いて飄々としていると上手く回ってしまう。どういうことなんだろうね。不思議な世界だよね。
努力って、本来、一生懸命に目標や目的に向かって頑張ることだから、良き言葉のはずなのに。
力を入れた方が力を抜いた方に比べて力を発揮できないなんて、なんかオカシイね。努力が、力が入っていることだとすると、努力を崇めたてるのは意外と問題があるかもしれないね。
疑ってみること
今、力を入れるとか努力するとかいう頑張ってるワードが本当に良きことが多いのかを疑ってみたのだ。
世の中で言う良き言葉の意味が本当かどうか疑ってみることを、自分に課すと面白いのでは。
お金持ちになること。出世すること。大きな家に住むこと。人がうらやむような美人と結婚すること。いつでも美味しいものを食べること。有名な大学に入ること。医者になること。弁護士になること。
世の中はことほどさように、得たいものや得たいことで充満している。そして、それをゲット出来れば、勝ち組の様に言われる。とにかく、人がうらやみそうなものをゲットせよなのだ。
本当に、それで幸せになれるのだろうか。幸せになれる人も多くいよう。しかし、そのような物欲的なゲット精神だけで、大きな幸せを得れない人も多くいるのではなかろうか。
そこで、欲しいものを自分の中から差し引いていったら、どうなるのかを自分に問うてみたらどうなんだろうといつも心の中で置いておくと面白くないか?
別にそれをゲットするために、奮闘努力する意味あるかなってな感じで、そことの位置を客観視することで、何か新しいことが見えてくることもあるのではないか?
言ってみれば、足りない自分を肯定するところから始めてみるのもありかなという話かな。
ならば、どんな人が理想なの?
やっぱり、自然体的な人なんだよね。総論的な答えでは。そういう人って、どんな感じだろ。
自然体な人であるというのは、結果としては、どうも、ナイナイ尽くしの人ではないだろうか?
さっきの話でいくと、まずは、何かを得れば何かを失うから、
得ない人
であれば、いい。
努力をして体や精神に多くの力を与えすぎてもいけないから、
頑張らない人
であれば、いい。
苦しまないためには、期待しなければいいに決まっている。期待するから、最悪の結果に耐えられなくなる。ならば、最初から、
期待しない人
に最初から、なれば、いい。
勝つのではなく負けない状態の方が楽。足りないと思うと更に得ようと努力してストレスが溜まる。満たされていない、何もない自分を肯定すると楽になる。
足りない自分を肯定できる人
は、実は、かなり、心の中が満ち足りていたりする。
頑張りや努力の逆だから、やっぱり、
力が上手に抜ける人
であることが全ての原点なのかな。
ナイナイ尽くしの人になれるかと言ったら、そう簡単にはなれないだろうなと思う。だって、仏か修行僧みたいな感じだからね。でもだよ、こういう発想っていうのは必要な感じがするよね。肩ひじ張って生きているとシンドイし。上手に力を抜いて生きれたら幸せだと思うよね。
ブログの記事を書くのも同じかな。力を込めて頑張って書いても、決して、良き文章が出来るわけでもないからね。時として、こういうような違った逆の観点から、自分を振り返るのは絶対に大事な感じがしますね。
少しだけ、力を抜いて、書いた記事でした。こんなんで、運とツキが巡って来るかなぁ???
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