地下鉄のシルバーシート(短編2)

小説

思い出したのは、かなり昔の話だ。

今。突然のウィルスの暴走で、今は、地下鉄も外の鉄道も動かない。地上には、漫画や映画で良く観たような近未来の都市の砂漠のような風景が本当に、自分の前に厳然として、あるのだから。

地上に出るのは、ほんのわずかな時間だけだ。雨の降ったときだけ、食料を探しに、選ばれた人間だけが、狩りというか、街を散策し、ビルの中を這い回り、缶詰とか冷凍食品的なものとか、火になるものを探すのだ。ほとんどのモノは強奪されたが。

あの頃、この街の地下は、人いきれで一杯だった。地下鉄と外の鉄道を繋ぐ地下街にはデパートやモールが沢山連結していて、それは繁盛していた。

その多くの動きまくっていた幸せな時の人々は、いつの間にか、いなくなった。現実にこの世から無くなった人もいる(ほとんどがここの分類に入る)し、家から出てこなかったり、遠くの田舎に時間をかけて帰って行った人もいる。そして、人の数はかなり少なくなった。それは、ウィルスの第二波とか第三波の問題ではなかったのだ。それはそれで全世界的に大変だったのだが、その長期間の最中に、馬鹿な大国の馬鹿な指導者がやってはいけないことをしたので、世界はこんなことになってしまったのだ。

全てのことは、一瞬にして変わる。消える。

新型肺炎厳戒で上海がゴーストタウンに!マスクに大行列、食料買い占め、デマも | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン

笑えるのは、会社の偉そうにしていた上司たちだ。偉そうに居丈高に振る舞っていた奴ほど、消えていくのが早かった。今は、生きているのか、死んでいるのかもわからない。多分、あいつらは、生きていても、使えないだろうし、死んでいても、誰にも惜しまれないだろう。人の価値っていうのは、こういう時にわかるな。と言っても、それを共感してくれる人の絶対数が客観的に少ないが。

都会という砂漠。そういえば、昔、前川清が「東京砂漠」って歌を歌っていたな。前川清が直立して切ない歌を歌っていた。そういえば、音楽もメロディも、随分と長い間に、忘れてしまったな。あれだけ、パンデミックが始まる前に、ミュージシャンや芸能人が、ユーチューブなんかで、歌を歌っていたのに、それもなくなってしまってから、久しいな。あの人たちはどこに消えたんだろう。こういう時こそ、繋がろうとか頑張ろうとか言っていなかったかい。

時間という観念が自分から無くなるのを簡単に受け入れてしまった。明日が何曜日なのかも知らない。大事なことは今日生きていることだけだ。

地下鉄自体は動かなくなった。電車自体も見たことはない。地下鉄の鉄道とプラットホームは、今は運よく生きている人達の住む場所なのだ。生きている我々を運よくというのも、オカシイ感じだが。すっきり生を失った方が今は幸せかもしれない。

そんなこんなで、自分は何故か、生きている。そして、居場所もある。会社にいた時はあれほど居場所がなかったくらいにパワハラにあっていたのに、今、自分は生きている。

あの時、俺は、丸ノ内線の地下鉄のシルバーシートに座っていた。サラリーマンとして丸の内に通勤していたが、その帰りだった。

シルバーシートの席は連結側の一番右側で右ひじを乗せられる俺としては一番落ち着ける場所だ。運よく、空いていた。俺は、近頃は気にせず、シルバーシートが空いていれば、座っている。何故なら、オヤジだから。

そして、俺は右ひじをつき、案の定、電車の振動でウツラウツラした。

突然、俺の左靴の上に足が乗った。それも、2回。うん?と俺は起きた。

前を見た。時間は夕方の5時半で2つ前の駅あたりから人が沢山入ってきたことは覚えている。女の赤いハイヒールと細い足が二本見えた。顔を上げて、女の顔を見た。四十代の眼鏡をかけた細いビジネスウーマン風の女だ。地下鉄には、往々にして、エロいOLが乗っている。この人も、そういうOLの一人だ。

違う。彼女ではない。

俺は左側の席を見た。俺よりは多分年上のジジイがいた。何故、踏む?何故、素知らぬ顔をする?

俺の気持ちが苛立ってきた。あと一駅で、終点だ。このジジイ、どうしたらいいか。いつもなら、そのまま、そんな気持ちを捨て置くことが出来なかった。

そうだな、ヤクザを装って、このジジイを追いかけるというのはどうだ。ただ、追いかける。そして、追いかけていることをジジイに気づかせる。これは名案だなと思って、俺は何も言わずに、電車が止まるのを待った。

【都市鉄道の歴史をたどる】地下鉄工事はどう変わったか 「開削」から「シールド」へ

もうこれ以上無理と思ったか、ジジイは立ち止まり、振り返り、「警察を呼ぶ」と言った。俺は「呼べ」と言った。そして、ジジイの目をじっと見つめて、それ以上何も喋らなかった。足を踏んだとかそういうことも。ジジイは少しだけ震えて、目が泳いでいた。それから二言か三言どうでも良いようなことを言い、そこを離れた。俺は、それ以上、追いかけなかった。

あの頃、幸せだったな。そんなどうでもいいようなことで、俺は、腹を立てていた。今なら、何もしないような話だ。そのくらい、あの頃は、日常が平穏無事だったのだ。そんな邪まなことを考えられるくらいに。

それで、俺は俺より背も低く俺より体重も軽いであろうジジイの背中を追いかけた。ジジイはなかなかスイスイと人混みをかき分けながら、エキナカを足早に歩いた。

ジジイは途中で俺に気がついた。駅の中でデパートの地下の食料品売り場に入って直ぐにだ。ジジイは逃げた。更に足早になり。俺は追いかけた。

どうってことはない。足を2回踏まれたことに対する無言の復讐というべきか。そんなクダラナイことにエネルギーを費やしていたのだ。

そんなどうでもよいようなことを俺は何故か想い出した。綺麗で美しくてうっとりするようなことではなく、そんなちっぽけな今の俺にとっては全く要らないことを思い出した。

神っていうのが存在するのだろうか。無宗教な俺には、救いを求める神はいない。何故、俺は、今、こんなクダラナイことを思い出すんだ。腹の足しにもならない愚劣な嫌な思い出だ。自分の狭小さの表れなのか。疲れているな。

早めに、ねぐらに帰って、体を横たえよう。そして落ち着いたら、近頃始めた木彫りをしよう。俺は、作った木彫りの人形を狩りのついでに街のあちこちに置いてきている。俺のあだ名も加筆して。

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