その小説家は、面倒くさかった。この上もなく。幻想小説とかファンタジー小説とかに分類されるであろう小説を沢山書いてきた作家であった。しかし、本人はすこぶる現実的で癇癪持ちであった。そして、彼はいつの間にか、老年になっていた。そして、ますます、短気になっていた。
作家には、かつて、家族がいた。妻と子供が二人いた。かなりの昔に、彼らは彼の元から去った。彼に言わせると、勝手に理由もつけずに出て行ったらしいが。子供たちは既に二人とも成人しているはずだが、消息は知らなかった。ただ、離婚はしていない妻が弁護士経由で、彼の本を一番多く出している出版社の編集者と金銭のやりとりを今もしていることだけは聞いている。ただ、それだけのことだ。
彼は金に無頓着だった。妻は金にうるさかった。彼は小説さえ書ければ良かった。それは三畳間の汚いアパートで飽きもせずに小説を書いていた若い頃と全く変わらなかった。そして、思うように小説が書けなかったら、瞬間湯沸かし器のように切れたことも今と全く変わらない。そして、そんな若き彼を金銭面で支えてくれたのが、妻であった。
口でこそ言わなかったが、昔の妻というか彼女を、彼は、心優しき女性と思っていた。そして、何故、こんなお嬢様が自分を支援してくれるのかも不思議だった。彼は、不器用なほど無口であったし、綺麗な服など持っていなかった。確かに、彼は細面の優しい顔をしていたが、週に1回ほどしか銭湯に行かず髪もぼさぼさで無精ひげは伸ばし放題であった。久しぶりに大学に行けば、山から下りてきた登山家か、仙人に間違われる有様だった。
彼女は、自分を愛玩動物か何かに間違えたのであろうか。弱者のためのボランティア活動なのか。そうとしか、思えなかった。彼女はお嬢様女子大の学生で、クラブ活動か何かの関係で、彼の在籍する国立大学に来ていて、彼を見つけ、いつの間にか、彼の近くにいたのだった。
田舎のバンカラな高校を優秀な成績で卒業するまで、彼は女性と付き合ったことはなかった。というよりも、彼女が初めて付き合った女性そのものだったのだ。付き合ったというのもおかしいかもしれない。デートすらしたことはなく、ただ、彼女が彼のアパートに来るだけだったから。
しかし、彼は、とにかく、小説をものにすることが当面の一番の課題であり、彼女のことは二の次のことだった。彼女は一言で言えば、美人だった。痩せて、スタイルも良かった。そして、快活であった。だから、不思議だった。それほど頻繁には来なかったものの、何故か、来ると、身の回りやお金のことなど、彼が日頃あまり気にかけない物事を片付けてくれた。何故、そこまで。
無口な彼も、彼女が無理やり自分の部屋に来た時に、「何故、君はそんなに僕のことに関して、色々してくれるの?」と聞いたことがある。
彼女は笑って、答えたのだ。
「好きだからに決まっているじゃないの。大学であなたを見かけた時に、そこだけ光っていたのよ。あなたの周りだけが。あなたは大学のポプラ並木の通りを歩いていたじゃないの。沢山の本を持って。木洩れ日があなたのところに降りかかったのよ。本当に、綺麗なほどに。それって、めったにあることじゃないでしょ。スポットライトのように、あなたのところだけに光が射したのよ。それって、天啓でしょ。多分。そして、そのことは私しか知らないのよ。あの時。だから、決めたのよ。大事だって、あなたが」
それから、長い年月が流れた。天啓とまで言ってくれた彼女をもう長い年月見たこともない。確かに、子供が生まれ家族のようなこともしたような記憶もあるが、それすらも不確かな感じもする。
俺の前には確かにあったものは原稿用紙とペンだけだったのは間違いないと、彼は、近頃、時々、自分のことを振り返る。彼女は本当にいたのかとすら思うことさえある。
だが、木洩れ日。何故、木洩れ日という言葉。樹木の間から陽射しが俺に降りかかったという言葉なのだろうが、何故、木洩れ日で木洩れ陽ではないのか。あの頃、俺は木洩れ日という字の不思議さを考えたこともなかった。なんで、今頃、そんなことに拘泥するのか。彼女との長い月日の中で、彼女からもらった言葉で自分が感心した言葉は何だったか。俺が泣いた言葉はなかったか。感動した言葉はなかったか。嬉しかった言葉はなかったのか。自分の作る作品の登場人物が喋る言葉以外に、周りの人の言葉に関心を持ったことはあっただろうか。
我ながら・・・・。
光か。俺はその時の光や木洩れ日を覚えていない。俺が大学に行くときは安い飯を食うか、本を借りるか返す時だけだ。その時、俺は、フラフラしていたに違いない。小説をものにすることしか考えていなかった。何故かと言われても、それが自分の使命だと勝手に思っていたのだから。小さい時から。そして、俺は周りの人に光のスポットライトがあたるところを見たこともない。木洩れ日に心を打たれたこともない。
彼は、やはり、そう独り言ちた。彼女は何だったんだろうか。改めて、彼は思うのだった。どんな言葉を自分に投げかけてくれていたのだろう。恥ずかしいが、想い出せない。
彼は、自分の別荘に来ている。そこは、彼の東北の実家の辺りに似た森がある。めったに外出することもなく、別荘に引きこもり、小説を書いている。今のファンタジー小説も、最後は悲惨な結末にならないようにと編集者から言われている。エンディングは光溢れさせて欲しいとまで言われている。
部屋の窓から見れる外には、木洩れ日がたくさんあった。木洩れた陽射しが美しいほどに朝を彩っていてくれた。
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