誰もが知っている五木寛之という作家、やはり、タダモノではない。彼のライフスタイルを少しだけ、追ってみた。そこから、我々にとって必要であろう幸せに繋がる何かを発見できるだろうか?
金とは関係のない静かな生活を続ける
五木寛之は、こんなことを言っている。
やっぱり自分は外地からの引き揚げ者だという、一種の「すねている」ところがあったのかもしれません。オーソドックスな人間じゃないから、正道は歩きたくない。陽の当たるところは歩きたくないというようなところがあるんです。
青春の門インタビューで
五木寛之さんは作家として生計を立てる以前、奥さんと東京で安アパートに暮らしながら学生生活を送っていた。 肉体労働に明け暮れたり奥さんも共働きしても、大学の学費を払うことが出来なくなって早稲田大学を学籍抹消扱いになっています。 しかし、そんな貧乏暮らしの中であっても、五木寛之さんは当時を振り返り、とても幸福だったと言います。二人とも映画が好きだったので、安い深夜映画にをよく観にいったのですが、電車賃がないので、下駄をつっかけて1時間以上もかけて歩いていきました。そんな小さな楽しみが、私たちにはとても幸せでしたと。その後、有名な作家になり八面六臂の活躍をしてきた五木寛之さんですが、現在でも、かつて奥さんと共に安アパートで貧乏暮らしをしていた頃と大して変わらないライフスタイルを送っているのです。
貧乏でも笑顔で暮らしていた若い頃から、50年の歳月が経過した後も、築30数年のマンションに暮らし、奥さんと歩いて映画館へ出かける。 夜遅くまで勝手に読書をし、好きな音楽を聴き、そして奥さんは絵を描く。まるで学生時代と変わらない生活。これって、本当の、精神的な意味での、ミニマリスト生活では、ありませんか。
畏るべし、五木寛之、です。金に走っていない。どんなに有名になり資産家になっても、心の幸せに焦点がある。
五木寛之の奥さん
五木寛之さんの奥さんは、金沢出身の精神科医である五木玲子さんです。五木寛之さんが33歳の時(1965年)、玲子さんと結婚しています。
五木家には跡継ぎである男の子がいなかったため、五木寛之さんが五木家に婿養子として入りました。
そのため、五木寛之さんの姓が「松延」から変わっています。玲子さんは現在、イラストレーターとして雑誌の挿絵などを担当しています。
そう、五木寛之は、松延寛之であったのです。実は。
垢も身の内
体も髪も洗わない五木寛之さんという話はよく聞いたことがある。外貌から来るダンディさとは対極にあり、その話はずうっと頭の中に残っている。
2016年に発表された 『なるだけ医者に頼らず生きるために―私が実践している100の習慣』(中経出版刊) に、「週1度はあまり噛まずに飲み込む」「歯を磨くときは片足立ち」など、日々行っている100の習慣を紹介しています。
その中で五木寛之さんが「シャンプーで髪を洗わない」というびっくりする習慣を紹介しています。五木さんと言えば、長髪をオールバックにしたスタイルがトレードマークですが、80歳を超えても、ロマンスグレーの髪はフサフサですが、なんと、五木寛之さんは若い頃からシャンプーで髪を洗う習慣がなかったと語っています。新人作家時代は年に2回、年齢を重ねると年4回洗う程度だったそうです。髪をシャンプーで洗わなくなった理由は、海外を歩き回った経験があると答えています。 一体なぜ五木さんが頭を洗わなくなったかと言えば、若い頃に海外を歩き回った経験によるもの。その当時、インドや東南アジア、モンゴルやチベット、ネパールには、髪を洗う習慣を持たない人が大勢いました。なかには生涯で「1度も洗ったことがない」人もいたそうです。しかし、マメにケアしていないにも関わらず、彼らの毛髪はたっぷりとしており、ハゲ頭の人はほとんどいなかったのです。
確かに私の知り合いでも学生時代に髪を洗わないでいたら、油脂でベタベタした髪が、途中から、サラサラしてきたそうなので、これは事実かもしれないが。驚きですよね。確かに、街で見かける浮浪者やブルーシーターは蓬髪の人は多い。
この洗髪エピソードを聞いた時、五木寛之という男、人の行く方向とは違う方向からモノを考えられるなと感じましたね。ことの本質に簡単に入っていけるのかもしれない。
五木寛之の小説、「雨の日には車をみがいて」は、そのストーリーの中の「たそがれ色のシムカ」に出てくる女性の台詞が出出来ます。そういう五木寛之を表しているように思っています。
よくいるわよね。ほら、自慢の車を洗車したあとに雨に降られると舌打ちしたりするようないやな男が。ああいうのは絶対に女に嫌われるタイプよ。車は雨の日こそみがくんだわ。ぴかぴかにみがいたボディに雨の滴が玉になって走るのって、すごくセクシーだと思わない? 雨の日に車をみがくのをいたがる男なんて最低ね…
五木寛之の名言
本居宣長は人は生きている限り悲しい目にあうと言っています。悲しいときにどうするか。悲しみから目をそらさずに悲しめと宣長は言います。悲しいと思え。そして悲しいと呟け。人にそれを語れ。歌にも歌え、と。そうすることによって自分の中の悲しみを引きはがして客体化することができるし、それを乗り越えられる。
どれほど努力しても失敗ばかりする時期もある。そういうときは、「うーん、どうも他力の風が吹いてないようだね」と自分を責めたりせずに首をすくめていればよい。
人間の値打ちというものは、生きている-この世に生れて、とにかく生きつづけ、今日まで生きている。そのことにまずあるのであって、生きている人間が何事を成し遂げてきたか、という人生の収支決算は、それはそれで、二番目ぐらいに考えていいのではないだろうか。
出世のための人脈じゃなく、自衛のための人脈をつくっていくんだ。そう覚悟するだけで、先行きの見えない世の中にも、ちっちゃな灯りがともるんじゃないでしょうか。
自分自身を囃し自分自身に相づちを上手に打てるようになったとき、私たちは孤独のなかでも明るく、いきいきした表情で暮らすことができるようになるかもしれない。
友達と孤独
五木寛之が大切な友人ほど距離を置くべきワケは何故か?
五木は、今の時代の3Kとして、「健康」「金銭」「孤独」を挙げている。「健康で長生きしたい」「安心して暮らせるだけのお金がほしい」「孤独になりたくない」が現代人の三大関心事であると講演で語っている。
その中の孤独について、五木寛之は言う。 自分は最終的に1人だと覚悟する。どんな死に方をしようと、人が死ぬときは1人。そういう意味では「誰もが孤独死なのだ」と断言している。だからこそ、友人関係も、そこから考えていけば良い。所詮、人は孤独である。ならば、友人の関係も、孤独を拒否するために集まってはいけないと。真の友人だからこそ、なあなあに集う必要はない。『荘子』にも「君子の交わりは淡きこと水のごとし」が、本当にそベスト。蜜や油のような濃い関係というのはかえって続かないものなのだと。そうすると、友人関係も孤独も楽しめるようになると彼は言う。実際に五木寛之は、友人の顔を見るのは数年にせいぜい1、2回らしいし、約束も取り付けない。すでに鬼籍に入られた永六輔さんや小沢昭一さんとも、そういう付き合い方をしてきたからこそ、50年以上仲間でいられたと。
そうしたなかで、五木寛之が実践してきたのが「回想」。
旅先などで柔らかな春の陽だまりのなか1人ベンチに座り、静かに目を閉じて、「あのときあの人とこんな話をしたな」だとか、「あの旅先でこんな友人と偶然出会ったな」などと、過去の楽しかったことを一つひとつ頭に浮かべてはかみしめる。これこそが人生の醍醐味だと。
五木寛之、やはり、畏るべし。群れのなかで共生しながら、自分を見失わない。この和して同ぜずの精神は、ビジネスパーソンの処世にも、きっと、役立つはずです。
養生訓
五 作家生活50年以上、83歳となった今もますます健筆をふるう五木寛之が登場。現在も、数々の連載を抱え、ラジオのレギュラー番組をもち、講演会で全国をとびまわっている。そんな五木の元気の源となっているのが「養生」。
自分の体の声に耳を傾け、ユニークな健康法を実践している。 木寛之は、 歯医者と眼科以外病院にいったことがなし、健康診断も受けないことで有名だ。それなのに、あの健康である。若々しい。何故よ?
「養生の実技 つよいカラダでなく」なる本の中で、五木寛之は言う。病気は治らない、治めるだけだ、自分の健康は自分で守る、治療より養生、耳を澄まして自分の体の声を聴くことが大切だという。
生きる哲学
ベストセラー『百歳人生を生きるヒント』で、五木寛之は、「遊行期」への長い下りの道を、日本人の年代感覚に添って、十年ごとに区切り、その各十年を、どのように歩くかを考え、第二章から第六章で紹介しています。
50代以降の人生は、10年ごとに考えています。
50代「事はじめ」――長い下り坂を歩く覚悟を
60代「再起動」――孤独の中で見えてくるもの
70代「黄金期」――学びの楽しさに目覚める
80代「自分ファースト」――嫌われる勇気
90代「妄想のとき」――郷愁世界に遊ぶ
幾つになっても、死と孤独に対して、五木の哲学を実践出来たら、人生の後半が楽しくなってくるような気がしてきます。幸せの尺度って、面白いですね。
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